北朝鮮帰国事業裁判:記者会見(ノーカット版 54’22″)

2018年8月20日、日本への脱北者5名が北朝鮮帰国事業で人権を侵害されたとして、北朝鮮政府を相手取り、計5億円の損害賠償を求め、東京地裁に訴えを提起した。

<本提訴の意義>

本訴訟は日本において初めて、脱北者らが北朝鮮政府を直接相手取って訴訟を起こす取り組みと考えられます。

北朝鮮政府らの欺罔により、帰国事業により日本から北朝鮮にわたった約10万人の在日コリアンや日本人妻などは、「地上の楽園」に移住すると宣伝されたにもかかわらず、実際には人生を完全に狂わされ、「人道に対する罪」の被害者となりました。帰国事業という壮大な人権侵害の被害者の救済に向けて、北朝鮮政府は一刻も早く被害者に対し、出国の自由、故国帰還の自由を与えるべきです。

6月の米朝首脳会談を受けて、安倍首相が日朝首脳会談の早期実現に向けた調整を指示しています。日本政府はあらゆる機会を通じて、北朝鮮政府に対し、被害者やその親族らの出国の自由、故国帰還の自由の保障を含む人権侵害の解決を強く働きかけるべきです。

<本件に至る経緯>

国連の北朝鮮人権調査委員会は2014年2月、この北朝鮮帰国事業や拉致問題を含む北朝鮮政府による人権侵害を「人道に対する罪」と認定する最終報告書を発表しました。

原文
http://www.ohchr.org/EN/HRBodies/HRC/CoIDPRK/Pages/ReportoftheCommissionofInquiryDPRK.aspx 
日本語訳 
https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page18_000274.html

これをうけて2015年1月15日、脱北した在日朝鮮人や日本人配偶者ら12人が日本弁護士連合会に対し、日朝両国の政府や赤十字、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)を相手方とする人権救済申立を行い、今も係属中です。

また原告川崎栄子は2018年2月20日、国際刑事裁判所(ICC、在オランダ・ハーグ)の検察官に対し、金正恩委員長や朝鮮総連の許宗萬議長の処罰に向けた検察官の捜査の開始を求め、帰国事業は「人道に対する罪」であるとの申立書を提出した(提訴時点で、ICC検察官からの正式な応答はなし)。

<北朝鮮帰国事業とは>

1959年から四半世紀にわたり行われました。「地上の楽園」と宣伝された北朝鮮に、在日コリアン、日本人妻など約10万人が渡ったものの、「帰国」後、劣悪な生活環境、あらゆる市民的・政治的権利の侵害、監視、差別などに苦しむ、悲劇的な境遇に追い込まれています。原告らを含め一部の人々が脱北に成功し日本に帰国していますが、北朝鮮に残した親族がいる場合には、面会もままならない家族離散の苦しみを余儀なくされています。

<原告略歴>

川崎栄子
1942年7月、在日コリアン2世として京都府にて出生。17歳だった1960年4月、1人で新潟港から北朝鮮に渡る。2003年脱北。2004年8月に44年ぶりに日本に戻る。韓錫圭(ハンソッキュ)の筆名で手記「日本から『北』に帰った人の物語」を出版している。2014年、北朝鮮からの帰国者の自立を助ける団体「モドゥ・モイジャ」を設立した。現在東京都在住。

榊原洋子
1950年に出生。在日コリアンの養父母の実子として、同年2月4日に出生届が出された。養母の病気などで家族は経済的余裕がない状態に陥ったことなどから、すべてを保障するという「祖国」に渡ろうと1961年5月26日、養父母とともに第60次帰国船に乗った。2003年11月に中朝国境の豆満江を渡り脱北した。現在大阪府在住。

高政美
1960年9月23日、大阪市生野区で、在日コリアン二世として出生。家族と共に1963年10月18日、3歳で北朝鮮に渡った。10代半ばで北朝鮮に到着した兄は、北朝鮮の実態に落胆して「日本に帰してくれ」と要求したためどこかに連れ去られたため、生き別れとなった。その後兄は、精神病院(49号病院)などに収容され、死亡した。2000年に最初の脱北をしたが中国から送還されて北朝鮮で拷問を受けた。2003年11月に再度中国に脱北し、2005年7月に日本に帰国した。現在大阪府在住。

齋藤博子
いわゆる日本人妻。1941年4月に出生。福井県鯖江市に育つ。1958年にダンス教室で知り合った韓国生まれの在日コリアン金本正二と結婚。1960年1月に長女が誕生。北朝鮮では何の心配もなく良い暮らしができる、日本人妻は3年経てば里帰りできるなどと数か月にわたり朝鮮総聯の人たちから説得され、1961年6月、家族で第63船で北朝鮮に渡る。2001年2月、2度目の脱北。同年8月に日本に帰国。現在大阪府在住。

石川学
1958年4月、東京都大田区に出生。父は在日コリアン1世、母は日本人。朝鮮小中級学校に通い、そこで北朝鮮が素晴らしい国という教育を受けたことなどから中学3年生の1972年、兄、姉とともに北朝鮮へ渡った。姉は期待していた北朝鮮と現実があまりに違ったショックが原因で北朝鮮到着まもなく精神を患い、1991年入院先で死亡した。大飢餓の際、大人も子どもも目の前でどんどん餓死していく中、自分と家族を守るために脱北を決意。2001年11月、兄とともに脱北。2002年9月に日本に帰国した。東京都在住。